三重県松阪市は三重県のほぼ中央部に位置しており、東は伊勢湾、西は山を越えて奈良県と接しており、西から東へ櫛田川が流れ、また面積の約7割を森林が占めている自然豊かな土地です。当社のある大石町は松阪市の中央辺りにあり、かつてより日本の中心地であった大和国(奈良)と伊勢を結ぶ和歌山街道と伊勢本街道が交わる宿場街として栄えてきました。
松阪市の山間部(飯高町)は古くから吉野より林業が伝わり、木材の産地として発展してきました。現在も飯高の山間部はその技術と気候風土により良質なスギ・ヒノキを産出しています。その丸太は、かつては櫛田川を使って都市部へ運搬されており、櫛田川流域は材木関係の業者が栄えました。現在は国内木材需要の減少などにより減りましたが、大石町には現在当社も含め数件の木材関連会社が残っています。
大石町周辺の名所旧跡
大石不動院
櫛田川沿いに約1200年前の西暦812年(弘仁 3年)、弘法大師空海上人が開創したと言われている「大石不動院」があります。このあたりの櫛田川は三重県立公園「香肌峡」として景勝地として有名ですが、その奇岩を形成している青石で創られたとされる、「青石不動明王」が今に残されております。境内の不動滝は桜の名所でもあり、また秋には紅葉が見応えあり、四季を通じて多くの観光客が訪れています。
大石不動院のホームページhttp://www.mctv.ne.jp/~hudouinn/
大石神社
大石町から東へすこし下った小片野町に大石神社があります。明治の政策によって周辺の神社19社を合祀して今に残っており、詳しい謂れは分かっておりません。松阪市の飯高から多気にかけての場所は、伊勢神宮が現在の伊勢市に決まる以前、天皇の命を受けた倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を祀る場所の候補地として一時的に祀られたとされる「元伊勢(もといせ)」の一つであり、それらが示す通り、昔から神社の多い場所でした。
深野の沈下橋
大石町より櫛田川を少し遡った場所に深野の沈下橋があります。沈下橋とは増水時には水没する橋のことで、全国的には四国の四万十川が有名です。増水時の水位差が激しい場合や、増水時に流木等で橋が壊されるのを防ぐために設けられる場合などがあり、この地の沈下橋も櫛田川の暴れ川たる所以と言えます。現在は蓮(はちす)ダムなどの建設によりかつてほど暴れることも無くなりましたが、それでも狭い川幅と青石による荒々しい水流はかつての暴れ川の面影を彷彿とさせます。
深野だんだん田
深野地区の棚田は、白猪山の南斜面に位置しています。室町時代には北畠氏の重要な拠点であったため情報を伝達するための狼煙(のろし)台が築かれ、兵士達の食料を賄うために、棚田が造られたと言われています。幾重にも積まれた自然石は強固な城壁のような風景であり、「石の芸術」とも称され、1997年には農林水産省の「棚田百選」にも選ばれています。毎年10月には、「深野たなだまつり」が開催され、棚田に数多くの灯籠が並べられ、とても幻想的な風景となります。
櫛田川
倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を祀る地を求め、この辺りを訪れた際に櫛を落としたことから「櫛田川」という名前になったと言われています。これに倣い、歴代の斎王(さいおう・天皇に代わり伊勢神宮を祀るための皇族の女子)は櫛を投げ入れ、お仕えする決意としました。
櫛田川は、上流部にあたる飯高町、飯南町で伐採された丸太を組み合わせ筏にして木材の水運・舟運などさまざまな利用が古来より行われ、両郡橋付近には松阪商人の発祥の地である射和商人の古い町並みが残り、櫛田川の清流と調和した独特の雰囲気をかもしだしています。
また、櫛田川には人柱伝説も残されています。櫛田川は江戸の頃には暴れ川として、度々氾濫を繰り返していました。下流の魚見のあたりに堤防を造る際、籐八翁は自ら進んで人柱となり、それから水害もなくなったということです。時が流れ、伝説だと思われていましたが、昭和12年に県が堤防の改修を行った際、籐八翁の遺骨と鉦が発掘され、伝説では無く事実であったことが証明されたそうです。